今度はヒマラヤに向かう夜行バスの中から後編を書いています。
【BellaTerraの今後の展示会や活動について】

私がbellaterraを辞める、もう日本に住むのですか?等の質問されることがあります。
2024年12月-2月の冬の展示会は行います。今までと同じように、一年に一度日本で展示会をして、他の時間はヒマラヤに篭もり遊牧民と共に製作しながら暮らす。という事が、環境、文化、人の生き方が変わっていく、イマココの最善ではないと思い、私自身の表現も変化していきたいと思うのです。

2024年12月(この冬の次の展示会)にの作品は、2022年10月から準備し始めています。
手紡ぎ手織り、昔ながらの方法にこだわると現代の時間の感覚では想像もできぬほど時間がかかり、ひと冬のコレクションには2年準備期間をかけています。
2024年1月インド、2024年の冬の作品の糸はかなり仕上がっていました。
糸の質=出来上がりの質。最高のショール、ジャケット、セーターには最高の糸が不可欠です。
私が自身が情熱と時間を割いて作業しているパートが、「糸になるまで!」です。

ここに来て10年。最高と思える品がこの1月に仕上がっていました。
ここ数年、村の長老たちがどんどん旅立っていっています。いいウール製品は熟練の紡ぎ技術が不可欠ですが、彼らが年々一人づついなくなっていく現実を目にし大きな葛藤がありました。
人類がはるか昔から続いてきた、スピンドルによる糸紡ぎ。家族で織り機から手作りし、牧羊している羊毛から衣服を自給してしまう遊牧民の文化。それが世界中から、暮らしの1部として今日まで営みを続けている人が、世界中からいなくなりかけているらしい事も本や実際に世界中の民族の話も旅の最中に聞き知りました。
その現実を目の当たりにして悲しいとか感情的に行動するのではなく、

少しでも長く遊牧民の暮らしが続くように、その営みから現金収入を得られるようにする事で遊牧民の暮らしが少しでも長く続いて欲しいと始めたのがBellaTerraでした。
最近、終わろうとする文化に対して終わらないで。終わらないで。というのは如何なものかと思い始めたのです。
ヒマラヤの宗教感では肉体を持つことは痛みであり、治療を施しても軽くならない大きな痛みを伴う不治の病に人が陥った時、この肉体を魂が離れ光となり、神の元で新たな役割を得る。という考えがあり、病気の本人も家族もその認識の元、ポジティブに闘病、介護できているのです。

この文化の終焉に対しても同じように思い始めました。
でも、今はこれからbellaterraをどうしていったらいいのか答えが出せません。
ひとつ言えることは、人とは違った状況に生きる私なりののベストを尽くしたい


文字を使わない彼等の言っていた事を手記に残したり、映像や音声に記録を残してみたり。
それとも後世に文化が残るよう、伝承に力を入れるべきなのか?

ヒマラヤにいると人間ってちっぽけだと感じます。この世界の変化は止められません。

この1月にヒマラヤで過去最高のクオリティの糸が出来上がっていた時に、ヒマラヤの遊牧民家族の愛情と信頼故出来上がった物だと感じました。
洋服作りも糸紡ぎも織物もとても楽しく幸せで、村での暮らしも辞められるとは思っていません。
ただ、今のやり方で冬物の展示会をするためには2年以上の準備期間が必要で必死の日々を過ごしてきました。一度そのループから離れてみたいのです。
私という小さな存在がそんな事を真剣に考えてみても世界の変化は変わらない。と冷静に思うけど、私が小学生の頃から楽しく参加していた、地元の芸術祭などに出てみようと思ったり、本の出版に向けて時間をとりたいと思ったり、布や言葉や音や映像、ヒマラヤに暮らして知った、素朴で丁寧な暮らしから感じる心地よい。美しいと思うものを、次の世代にも繋いでいけることに時間を使いたいと思うようになりました。

現在再現しようとしているアンティークショールの技術は、村でもあと一人しかできません。さらに仕事としては、今までしてくれなかったこの技術。
私も糸紡ぎを初めて10年目。今、パパと一緒に1枚のアンティークショールの復刻に取り組んでいます。
目下の目標はそのショールを次の展示会に1枚でいいから飾ること。

物を作らない自分は想像もできず、インドのみんなも休む気は無いので、お休みというより形を変えるという感じになると思います。作品はオンラインショップや販売店さんにお願いしようと思っていますので、皆様どうぞご贔屓にお願いします。

自由に感じるままに

自分なりに責任と覚悟をもって真面目に(笑)

長い間世界歩いてきたつもり

そんな自分の根本も変わらない

生きとし生けるものの幸せと

私が私として生きる幸せ

どちらも大切にしたいと素直に思う

実は忘れられない人が居るだけ。。。

そんな理由もいいかもね

【羊飼いの魅力と幼い頃の原風景】
羊、馬、牛、鶏、犬を育てている、一緒に住んでいる羊飼いの家族と暮らしはじめてもう7.8年になるようです。自分でも遠いどこかのお話のようです。
衣食住の全てを先代達から受け継ぎ、自分達で創造してしまう彼等をとてもかっこいいと思ったし、年老いていく様は美しく人間という生き物の本質を生きているように感じたのです。

現地の人と結婚していたり、恋人がいると思っている方もいるようですが、1人で暮らしを積み上げて来ました。
羊飼いの家族との間には 性別も国籍も宗教も関係ない、とても深い愛情と信頼があると思います。
私が幸せそうに健康そうにしていると感じると彼らはとっても嬉しそうで、疲れていたり困難の中にある時は言葉にしなくても全てお見通す。その問題を彼等が解決でき無いことだと、悲しそうになってしまいます。

私の幼少期は、祖父祖母の家から徒歩数分圏内に従兄弟達も住んでいて、ご近所は曽祖父や祖父祖母の知り合いで、隣接してる家はどの家も勝手に入って話かけて良いという、the 大家族に育ちました。
裏山の畑に祖母と籠と鎌をもって出かけ、畑を耕し野草を摘んで、曽祖父と祖父が建てた手作りのおうちの囲炉裏の火の上でおばあちゃんと山菜を煮て、海に海藻を拾いに行きトコロテンを手作りし夏の暑い日にみんなで食べて。
そんな古き良き昭和の家庭ドラマのような思い出がいっぱいです。
30歳の時オーストラリアにいる最中、大好きな祖母が亡くなって、手作りのお家も取り壊されてしまったと聞いて、そんな現実は絶対見たくなくて、日本に帰って現実を受け入れるなんてできなくて3年以上日本に帰らなかった事もありました。
祖父と祖母という大切人を失った時期にヒマラヤで、糸紡ぎと山の暮らしに出会いました。糸紡ぎだけではなくて、それを教えてくれたおじいちゃんおばあちゃんが、私の祖父母の様になんでも出来て、凛々しく毅然としつつ愛情に溢れた人達で、あの集落にいついてしまったのだと思います。
ルールの厳しい田舎の集落ですが、厳格な職人だった祖父と、躾に厳しく何より自身を厳しく律した祖母の言っていたことを思いだし自分らしくしていたら、村の人たちも次第に受けいれてくれて、今ではとても深い交流を結んでいます。インドの家族関係が良くなるのに比例して、日本の両親との関係もより深くなって、父と心が通う会話ができるようになったてきたり、母とは今までで1番いい関係でいれていると思うのと同時に、両親や親戚にとても心配をかけていた事に今更しっかり気づいてきました。
私自身には子供はいないのですが、姪や甥、友人たちの子供達と親密な良い時間が過ごせたのも、今回の日本滞在の幸せな贈り物のような時間でした。
幼稚園生の姪が、私のファッションと髪型を一生懸命真似したがっていて、お揃いのドレスのおねだりは愛おしかった。
日本での家族関係が上手くいっているのも、ヒマラヤのパパとママのおかげです。
ヒマラヤのパパは糸紡ぎと織りの師匠です。
あの村の方々は自分の死装束は作らず、奥さんが喪にふくすための服を紡ぎ織るのです。
自分の肉体が光に還った後、奥さんや家族が愛情に包まれるよう生きる。
私も私をあの村に招いた長老が亡くなる前に、ショールをいただいたことがありました。
身体の時間が終わっても、この愛はずっと一緒だよ。そんな事を村の日常から感じています。
全ての行動が大きな愛から来るような人達です。

【パパの教え】

「自分で見て考えてやってみる。自分で挑戦する。」
が、師匠からの教えです。
きっと、この考えは糸紡ぎだけじゃなくて、色んなことに応用可能だと思います。

パパはいつも遠くから見ています。
私の作品作りが遅くても小言は言いません。
他の仕事を頑張っている時、いっぱいいっぱいになるほどこんを詰めている時は、それについても何も言いません。
ただ、ちゃんと食べてるか?と、ママや息子にに食事やおやつを差し入れで持っていくように言ってくれたり、私ができていないウールの作業をしておいてくれるのです。
パパ自身がいつもみんなを見ていて、感じていて、さりげなく助けてくれるのです。
私は未だに一度もパパに小言を言われたことはありません。
ただ、毎朝私の部屋の前で日の出を待っているパパ。毎日、何度も声をかけてくれるママ。
大きな愛情を注いでもらっています。ただ大きな愛情を伝える。その大切さをこの村に来て実感しています。

そんなパパが言うのだから、糸紡ぎもお仕事も自分をジャッジせず。見て考えてやってみる!!!
を、糸紡ぎ以外でも長い間続けてみたら、ある時ふと何かを感じたのです。
愛より偉大なものはないように思えてきたのです。

【Life is precious】
この数ヶ月体調が悪く身体の痛みだけでなく、最悪な気分から抜け出せない日々も沢山あって、きちんと治療を受けて寝ているしかできない日もありました。
朝、鳥の声が聞こえて目が覚めて、瞑想して、囲炉裏の火を起こして、少しストレッチして、朝ごはんが食べれる。そんな暮らしができる家があって運転もできる。その日々はとても尊く、ヒマラヤも日本も両方に大好きな人達と、穏やかな暮らしがあることをありがたく思いました。
いつも日本を経つ時は、山の暮らしは危険だし、いつ命を落とすかもしれないと覚悟をして身辺を整え、世捨て人の様な出家の様な気持ちでしたが、最近は少しでも長く生きて、この星でたくさんの存在と幸せに暮らしたい。と思うようになりました。
修行者の様なとことん追い詰め手放してきた生き方から、素朴な幸せを喜ぶような生き方へシフトしていく時かなと思います。
幸せとは快楽を追い求め、手に入った時に感じる恍惚的幸せではなくて、日々の暮らしの中にある命の煌めきや、何気ない純粋なものと心通わす瞬間の愛おしさや尊さを感じられるチャンネルで自分があれるよう、瞑想やヨガ生活全般を大切にしながら、社会的生業部分のお仕事も今まで以上に丁寧に大切にしたいと思いました。

日本にいてもヒマラヤにいても、空気も水も空も植物も、地球も宇宙も恵と祝福を授けてくれていることを感じ、この星に生きてみたい。と思えるように、やっとなってきた所です。

体の不調が色んなことを教えてくれると言いますが、まさにその通りで、今この瞬間生きている事が奇跡だと、ヒマラヤの絶景の前でもなく、体調が悪く日本で寝ているしかなかった時にも思ったのでした。

いつも色々な形で、たくさんの方からサポートや心遣いを頂いています。
本当にありがたく日本を離れてしみじみしています。
いつもありがとう
本当にありがとう

さて、真冬の1月ぶりのお山の暮らし。
到着1日目。

シンプルな暮らしがここにある。

自分を美しく飾り立てることなく、また、自分を誇張して見せることもない。

人々は年齢を重ねても子供のように無邪気だが、よく働き、物は必要以上に持たず、シンプルに暮らしている。

山に入るバス道路は打者崩れで決壊していて車両通行止めで、50kgの荷物を持って土砂崩れの場所を歩いて越えなくてはならないというハプニングもあった。

私の住む場所は土砂崩れの場所のまだまだ先。友人が車で迎えに来てくれて、土砂崩れの反対側から徒歩部分を越えて下手の私のところまで来てくれて、荷物を半分持ってくれた。それでも23kgくらいの荷物を担いで歩いたのですが、友人がいてくれるって心強くわざわざ1時間くらいかけて迎えに来てくれたのが嬉しかった。

バス道路沿いの村まで到着すると、朝も昼も夜も地元の家庭料理に呼ばれた。この地域はあっさりとした薄味のカレーがメインで、日本で食べるカレーのように定食スタイルではなく、ご飯と豆のカレー。チャパティーと野菜のカレー1品、蒸しパン1種類。と、品数も味もシンプルなのだけど、とっても美味しい。気心のしれたもてなしに、力が抜けてほっとした。

天然温泉に入って、みんなで編み物して、ご飯を食べて、冗談ばっかり言ってる。そんな飾らない日常がたまらなくうれしかった。

私にとってヒマラヤの暮らしは、スピリチュアルとかなんでもなくて、愛情に溢れた純粋な人達との気心の知れたシンプルな毎日。

最近、幸せを感じるのは日本でもインドでも心から信頼できる人との素朴で暖かい幸あふれる時間。そしてこの美しい星にただ魅せられている時間。

なんだか世界をたくさん旅して、色んな国で色んなことをしてみたけど、結局、今、1番幸せを感じるのはそんなシンプルなこと。

その尊さを知ることが出来たのも、透明度溢れる土地と人たちのおかげなのだと思う。

今、私が

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