この村の人口は100人ちょっと。 
二家族が羊飼いで、250匹ほどの羊がいます。

2014年の冬。雪の降るヒマラヤの村から村へ登山していた時。
私の心をわしづかみにした光景。
日なたに座って糸を紡ぎ、編み、織っている人たち。
軽く伸ばされていく手から、雲から光がさすように、糸が生まれてきて光景も。
笑顔の口元には歯がなくて、子供の様にキラキラ輝く瞳をした老人たち。
あの時、私は、彼らが山岳遊牧民だなんて。
羊飼いをし、ここでは家族で、糸を紡ぎ、織って。が、当たり前だったなんて。
何も知らなかった。。。

夏の間、羊達は標高4000m超えの草原を旅をして、雪が降ってきたら2700mの村のある場所まで下りてくる。
モンゴルなどの遊牧民は横移動の遊牧をし、ヒマラヤの遊牧民は季節ごとに縦の移動をします。

標高4000mの世界は木の生えていない、脛くらいの高さまでの、

小さな小さな高山植物が咲き乱れている世界。
薪にする木もないし、野菜も育たないので、村はなく遊牧民しかいない。
鳥も、他の動物も、ほとんどいない。
風にそよぐ木の葉もしない。
岩のむき出しの、静かな静かな世界。
赤や、黄色、紫の色とりどりの花たちと、澄んだ澄んだ空の青。

千匹いたら千の白色の羊がいて、波のように岩肌を羊の群れが、移動していく。
羊飼いは洞窟に寝床を持って、犬たちが家畜を守っている。
馬たちも遊牧についてくる。
太陽と青い空の下、羊も、馬も、下草を食んでいる。
他にはほとんど、他の生命体の存在を感じない、静かなヒマラヤの高地。
雪が解けた春から、雪の降る季節までを、羊飼いは家畜と共に過ごしている。

栄養に富んだ下草、氷河から溶けてくる渓流、涼しい風も、暖かい太陽も、羊と馬の生体に合っていて、大自然が丈夫に家畜を育んでくれる。
羊飼いはそれを見守り、餌となる草のたくさん生えている場所へ、群れを導いていく。
同じに見える羊の群れの中で個体を見分け、それぞれの状態に合わせてケアをする。

2022年10月14日
高地から村へ降りて来る、遊牧の様子

高地に雪が積もる前に、下の村へ降りてきて、羊毛の毛刈りをする。
標高の低いところには、羊毛にくっついてしまう、大きめの植物もたくさん生えている。
高地にはそのような草が生えていないから、ふわふわと毛の伸びた状態の羊に、くっつく草が付かぬうちに、羊毛を刈り取る。

羊たちは冬の前に毛を刈られて、寒くないだろうか?と思ったけれど。
羊飼いの家は二階に人が居住し、一階は羊たちの部屋になっている。
ぎゅうぎゅう詰めの、お部屋で眠る。その部屋はとても暖かい。
そして、その上に住む人の部屋も、羊たち発散している熱で暖かい。

冬の朝、雪が降り積もり、家の煙突からは煙が上がる。
そんな中、羊たちの声が村にこだまする。
部屋から出され、太陽が昇ると同時に村の外へ遊牧に出ていく。

年配のおじいさんが若者に、あそこの斜面は日当たりが良く下草や木の皮など、羊の食べ物があるだろうから、今日はそこへ行きなさい。
と、指示をしながら、村から出る道を共に歩く。
本格的に道が険しくなるころ、おじいさんは村へ引き返し、体力のある若者が群れを引き連れ、雪の中を行進していく。


その集団に犬たちは、はしゃぎながらついていく。
雪山のスポーツをしたことにある人ならば、知っている。
雪の中を動くのは、汗をかくほど体力を使う。
はぁはぁ、息を切らし、汗をかき進んでいく。
羊たちもずっと動いている。
道なき急な勾配を草をはみながら、前に、前に、日が暮れるまで進んでいる。
そして、陽が暮れるころに、村に戻ってくる。
広がった羊たちの群れを、村へと続く細い道に追い込むのは、なかなか大変なのだ。
夕方になると、羊飼いの家のおじいさんも、おじさんも、お母さんも、村の外まで群れを迎えに行く。
犬も人も一緒になって、村へと続く小道へ追い込む。

私も日中は違う仕事をしているけれど、お見送りとお迎えには、他の家族に交じり良く出かける。

夕方、日の沈むころ。
羊飼いのおじいさんは、眺めの良い場所に座って、山並みを眺めている。
ほとんど毎日、動きもせずに、そわそわもせずに、静かにずっと見ている。
おじいさんの日課がわかってから、私は、夕方そこへ行き、ただ横に座って、静かに山を眺めるようになった。

おじいさんは、生まれた時から、カーストの都合で羊飼い。
先祖も代々、子供も、孫も、この山で羊飼い。
家畜を先祖から譲り受け、増えすぎず、減りすぎずの数を、代々ずっと守ってきた。
バスや車に乗ったことは、ほとんどない。
八百屋のある下の町に、年にほんの数回、羊毛を売りに行ったりするために、降りているようだけど。
その時には正装に身を包むほど。
一年中、ほとんど同じ手織りの民族衣装を着て、目をキラキラ輝かせてる。
そして、いつも静寂を纏っている。

彼は、外の世界のことは、ほとんど知らない。
テレビも、車も、商店に売っているものも。
文字も、数字によって構成されているカレンダーもなかった。
塩と物々交換してもらうため、数か月に一回、キャラバンを組んで何日も歩いて、塩を持って帰ってきた。
そんな時代に中年以上の、この村の人達は育った。

ヒマラヤの広大な、広大な、はるか遠くまで続いていく道などない、山のことを知っている。
はるか遠くまで知っている。

そこで子供の時から、昼は羊と馬と犬と共に歩き、座り。
夜は洞窟で火を囲み、休み、眠って大きくなった。

ただそこに、大きな大きなヒマラヤの命の循環があって。
ただその中で、その一部として。神に感謝し、星を眺め、太陽を眺め、毎日、角度が変わるのを見てきた。

私たち現代人が機械や情報に頼っていることを、大自然を見つめることで情報を集め、自分たちで気がついてきた。
長い長い年月、彼らは、ヒマラヤの大自然を壊すことなく。
他の生命と同じように、害することをせず、循環の中に、ただ、生まれ、死んで。命をつなぎ続けてきたと。
そんな生き方をしてきたカケラが、羊飼いのおじいさんの隣に座り、静かに山並みを眺めているうちに、ゆっくりと私にも沁みてきたような気がする。
おじいさんが子供のころに、今は亡き長老たちと共に座り、火を眺め、時を重ね、今は、孫に仕事を受け継いでいる。
その時間の積み重ねは、文字にも、言葉にもできなくて。
ただ彼が、どれだけの時間を、大きな自然の営みの中で、他の動物たちと心を交わし、移り変わる景色の中から、感じ、言葉にならない会話を重ね。
昇っては沈む太陽と月、偉大なる宇宙と。
四季を巡り豊穣をもたらす、恵を与えてくれる地球。
その間で、しっかりと自分の足で、自分の道を歩いてきた。

僧侶のような落ち着きと、子供のような輝く瞳で、夕日を同じ場所で、ただ静かに、動かずに。
自分の家の羊を手紡ぎ手織りした、民族衣装を着て、眺めている。

私は、彼の隣に座り糸を紡ぎ。
彼の隣に座り、織の道具の手入れをする。

質問しても、教えることなんかない。という彼の隣で
彼のすることなすこと観察し
真似しているうちに
自分のショールが織りあがっていた。

字も、車も、商店もなかったころに
ここの人たちが、この糸紡ぎの方法や織の方法を、誰に習ったのだろう。と思い始めた。
その答えも、おじいさん、おばあさんが、時々、話してくれる昔話の中に。
寒い冬にみんなで一つの部屋に集まって、火を囲んで年寄りの話に耳を傾けた。
そうやって、育ったんだと笑う人たちの心は、警戒心が強い反面、打ち解けると、とてつもなく優しくて暖かい。

ずっと、ずっと、ずっと昔にこの土地に住んでいた人たちと、同じように羊を追いかけて、同じように糸を紡いで織っているうちに。
昔の人は、今の人には聞こえない何かが聞こえていたのかもしれないと。思うようになりました。
織り物の糸は平面のように見えますが、織機にかかる糸は、幾何学模様の立体です。
それが一枚の平面の様にな、見た目になります。
まるで、星が無限の空間に配されている宇宙が、この星からだと、空を覆う天蓋の様に見えるようだと。

ずっと、ずっと、昔の人たちは、宇宙と地球の叡智と祝福と共に、輝く道を歩んできたのかもしれない。
その頃の人たちは、羊飼いのおじいさんの様に輝く瞳で、夕日の沈む山並みを、静かに眺めていたかもしれない。

毎日、角度を変えて昇って沈む、太陽。
明るさも大きさも変わり続ける、月と星たち。

日々移り変わる、野に咲く花や、野菜たち。

たくさんの情報に溢れているヒマラヤは。
まるで生命の調べを、オーケストラのように奏でているようです。

美しい地球の一部であること。
偉大なる宇宙の一部であること。
ただそれだけの尊さ。
羊飼いのおじいさんは伝えてくれているのだろうか?

まだ、わたしにはわからない。

ずっと書きたかった、羊飼いの魅力。

満月の力をお借りして、やっと、文章にすることができた。

地球と宇宙の祝福と共に、輝く道を歩まれますように。
愛と感謝を込めて

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