溢れんばかりに、もりもりと食べ物やお花が実っています。
これぞ、パーマカルチャーの源流なのだと、感じた景色が広がっています。
村の羊飼いの家に行くと。
駐車場にしたら2台分位の土地+岩という軒先の土地に。

上の写真 左に続く景色


・雑穀2種 アラマンサス。milleto
・とうもろこし
・かぼちゃ
・唐辛子
・大きな高菜
・なす
・マリーゴールド
・トマト
・トマトもどき(トマトみたいな違うもの)
・ヘチマゴーヤ(ヒンディー語を直訳)
・金時豆
・ヒマワリ(家畜の飼料)
・ネトル
と、多様な種類の野菜が植わっていました。そしてその横に蜜蜂の巣があります。
大きな岩の多いこの村では、岩にはツルの伸びる野菜を這わせています。

道の脇の小さなスペースや、岩の上にも食べる事のできるものがたくさん見られます。

一見、雑草に見える植物も同時に茂っていて、そんな草達も、トウモロコシの周りの部分も、キュウリの皮も。。。牛の餌になります。

道端にも食べ物いっぱい
牛は家の1階に。人は2階に。
動物と共に暮らすことは循環していく暮らしの要。日本の昔の農家さんも、1階で家畜を飼っていたようで、名残が古民家などには残っています。


原毛を掃除している時に取り除いた、うんちのカスや草のクズは、畑にそのまま撒ける質のいい肥料です。
たくさんの命が共に生きる事で、循環、機能しているから。

右側が選別済。真ん中が原毛。左が汚れの部分。

ここの村、もしくは周りに自生している植物たちは、市販の種から栽培されたものと見た目は似ているのですが、どこか少し違っていています。
どうやらヒマラヤは原種宝庫。品種改良などされる野菜や植物に見慣れていた私。
家族で繋いで来た種から栽培された、お野菜や野草を、これは○○という名前、というように、下の世界の名前というカテゴリーにはめる必要ないことを知りました。

この村ではガーデニングという価値観はなく、家の周りは食べれる物ばかりです。
お花は家の外に山ほど自然に生えています。
こぼれ種からも、毎年、生えて来るようですし、きちんと種を撒いている物もあります。
蜂の巣箱を、かなりの家庭で持っているので、村の周りは花畑だらけで、多種多様な植物が生えています。

どうして、そんな過酷な場所で、不便な暮らしをしているのか?
どうして、病気になっても日本に帰らないのか?
よく質問をいただきますが。
ここが好き。こんな暮らし好き。だからだと思います。
多種多様な名も無き小さな花達が、勝手に生えていて。
どの命も輝いていて。
道路が通っていないので、車の音もバイクの音もする事は24時間、365日ありません。
聞こえてくるのは、圧倒的に人間よりも多い数の、鳥の声、ニワトリや、牛の声。
風の音。
雨の音。
火の燃える音。

そんな場所にいたら、歩いているだけで、生きている喜びが湧いてきます。
村の人の写真の顔が笑顔なのも
。撮っている私の顔も笑顔なのも。
この場所に生きているから。
なのでしょう。

神様は地上を楽園に創造したと、言いますが。
ここにいると、全ての命は平等に、花も、虫も、動物も、人間も。
この地球を楽しむために
ただ、生きるために
生まれてきたのではないかと思うのです。

歳をとっても、この村の方の瞳が、子供のように輝いているのは、ただ、この星と共に、ほかの命と共に生きること。
を、続けて来たからなのかもしれないと。
あちらもこちらも、花畑。
その後ろに広がる山並みを眺めては思うのです。

こんな場所が、いつまでも続くように。と思うから。
こんな文化や、こんな人間が、少しでも長く存在してくれたらいいな。って思うから。
好きなことを続ける事は、時に、とても大変な時もあるけれど、続けているのだろうな。と思うのです。

この身体と共に、この地球という美しい星に存在することは、たった1度だけ。
穏やかに花を眺めたり。
他の動物と戯れたり。
煙の匂いに包まれたり。
鳥の声を聞いたり。
そんな事に心奪われている瞬間。
とても満たされ幸せだと思うのです。

誰も何もしていないの。
そこにただ、自然に存在しているもの。と共に存在する幸せ。

村を歩いているだけで。
誰かしらが、ひと房のトウモロコシや、ひとつのきゅうりをくれます。
色んな人がくれるから。
毎日、毎日、色々食べてます。

村を歩いているだけで
たくさんの花が見れます。
たくさんの種類の鳥が見れます。
たくさんの動植物に囲まれています。

そんなシンプルな幸せを、享受して生きていられる喜びに気がついて。

地球って、瞬間、瞬間、こんなにも、美しい姿を見せてくれる。

ここにいると、もうそれだけ。

いついつまでも
地球でたくさんの生命が
輝いていてくださいますように

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