次の朝、私は持ってきた民族衣装を着た。
目の前にいる羊の群れから与えられた羊毛、家長のおじいさんの作った織りの衣に身を包まれている羊飼いの家族の二人。そして、私も同じ羊毛、同じおじいさんと共に織った民族衣装を纏いその地に立つことができた。
羊飼いの家族が代々遊牧を行っているこの場所に来る事だけに意味があった訳じゃ無く、たくさんの過去が繋がって、今、ここにある。と感じた。
お寺もマントラもなかったけれど言葉にするなら、とても長かった道のりの巡礼の大切な一つの場所、大いなる存在の大きな愛のような空間で魂ごと静寂と安堵に包まれているように感じた。
4000Mの静寂の世界。
ヒマラヤの4000Mに思考を超えて全身全霊で存在している。ただそれだけ。ただそれだけの小さき者。この星の記憶の詰まった素粒子たちと言葉も理性も届かぬやり取りを自分の身体がしている。ただ存在しているということを感じる事。とてもシンプルで満ち足りていた。
空気がある事、太陽が昇る事、花が咲き、風がそよぎ、それを他の動物が食べること。
人間が作り出したものは、私たちが持ち込んだもの以外一切存在しない。
聞こえる音も、流れる水も、燃える木も。人間が整えたり育てたものではなく、そこにある自然環境に合わせて人間が移動していく。人の都合のいいように物事を作り変えていくのではなく、ただそこあるものがすべて。変える必要もなく、今在るもの以上に望むこともなくそこにあるものを受け取り、人間もほかの生き物と同じように地球に生かされているただ一つの命だと現実を通して深く理解し実感することができる。
そんな瞬間、地球そのものが作りだした芸術がどれほどに美しいか。それを見た時に、地球という星以上に美しいものは人には作り出せないと感じ、社会生活の原動力となっている欲求や渇望という感情から解放される。この世にあるすべての奇跡に感謝溢れるとき、心深くから満たされている状態になる。私という存在は小さすぎて、感じている大自然の大きさの中ではなんでもない。この魂と地球というむき出しの命のやり取りが近代文明なんかよりはるかに長い時間この場所では繋がり続けている。
足りている、満たされている、与えられている、生かされている。と、感じるとき身体も思考もどんどん軽くなっていった。
全ての物事に感謝した時、自然と他のすべての生命も幸せに自由であってほしいと思う気持ちがわいてくる。ヒマラヤに昇る朝日を見てヒツジやヤギに囲まれていると、ただ純粋にすべての命の幸せと自由を想う。
何かのためでもなく、誰かのためでもなく、祈る気持ちが溢れてくることを幸せに思う。
山岳遊牧民として、おじいさんもおばあさんも一生をそうやって生きてきたのだと、その瞳が、その行動のすべてが語っている。