2024年12月~2025年1.2月の展示会に向けて、作品達がうぶ声を上げています。
毛糸の品質が過去最高です。
セーターは柔らかくて着用した瞬間の肌の感触が、過去に体感したことの無い、こんなセーター今まで着たことない。と、恥ずかしながら公表させていただいちゃいます。
180時間の掃除の成果♡と、10年同じメンバーで切磋琢磨してきた集大成と自画自賛です。
1人じゃ作れない、村1個のみんなの力。

「可愛いだけじゃ全然ない。これが山岳民族の先祖代々繋がれた手工芸です。」

本当に本当に、冬を楽しみにしていてください。
私は既に大興奮で思わず投稿してしまいました。

2024年12月に展示会は
・ASABA Art Square
・日用美

で開催させていただける予定です。
楽しみに待っていてくださったら嬉しいです。

可愛い作品を試着してみたら、思い出が込み上げてきたのここに書いてみます。

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私の母方の祖母は、いつも手を動かしている人で、私は祖母の手作りのセーターやチョッキが好きだった。年頃になって、ハイブランドに洋服とヒールに巻き髪で出かけるようになっても、家では祖母の手編みのセーターを着ていた。
祖父は家を作る仕事していた。曽祖父と祖父がセルフビルドした家の中には、祖父の手作りの囲炉裏テーブルがあって、朝から晩まで鉄瓶から蒸気が漏れていた。
嵐が来た翌日には祖母と海に出かけ、テングサを拾ってところてんを手作りした。
仕事をする年になっても、夜は祖母や従兄弟と編み物や縫い物をしたり、本を読んだりして過ごしていた。
旅に出るようになって、いつもどこかに行っていたけど、地元に帰った翌日は「祖母の日」なのが暗黙の了解で、ドライブにふたりで出かけ日本蕎麦を食べ歩くのが恒例だった。
約束しなくても、必ず待っていてくれた。

ある日、恒例のドライブの日に病院に付き添うように言われた。
診察室に一緒に入るとがんの宣告をされた。
祖母は、「そうですか。病院で治療は受けません。」と言うと、そそくさと病室を出てしまった。
その日は、お蕎麦に行かずにまっすぐ家に帰った。

それから祖母は、キルトで大きなタペストリーを作り始めた。
私は旅を続け半年に1度ほど帰ると、祖母の大作がどんどん出来上がっていた。
1枚に2ヶ月程かけて大作を6枚作った。
彼女には女の子の孫が6人いたから、1人1枚づつ手作りのタペストリーをキルトした。

それを最後に祖母は対策を作るのを辞めて、手芸の道具をどんどん私にくれるようになった。

彼女は最後まで祖父の建てた自宅で彼女らしく過ごした。
亡くなった後、代々懇意にしている葬儀屋さんと、お葬式のプランも決めて支払いまで1人で済ませて居ることを遺族は知った。三回忌までいいからと、三回忌の分のお支払いまで済ませ、遺品整理が必要な荷物は残ってなくて、先に亡くなったおじいさんの遺品も含め、2人分全部1人で整理して逝ってしまった。

私が彼女の危篤の連絡を受けたのは、タスマニアという場所にいる時で、ちょうどクリスマスの前で日本への往復チケットは40万円位した。
私はお金がかかるから帰らない。と言って帰らなかった。
でも、本当はおばあさんが死んでしまうところを、絶対に見たくなかった。
今でも覚えている、小さな子供の頃生まれて初めて「死」というものと、「それが必ず誰にも訪れると」知った時、おばあさんと手をつなぎお散歩の途中で、「おばあさんは死なないよね。絶対死なないよね」って泣いたこと。

おばあさんの死後、日本に帰れる気になれなかった。帰ってもお蕎麦に行こうと待っていてくれる彼女がいない。日本に戻ってその現実を見るなんて出来なかった。

大きな喪失感を抱えオーストラリアでの日々を過ごし、2014年インドへやってきた。

ヒマラヤへやってきて、糸紡ぎを通して出会ったおばあさん達は、私の祖母にそっくりだった。
気の強さも矍鑠とした歯切れの良さも、そして、孫や子供のために惜しみない愛情を注ぎ洋服を作る姿も。

今まで、どうしてヒマラヤにいついたのですか?と聞かれても、この話は恥ずかしくてしてこなかった話です。
この土地で男性が家族揃って家を建て、女性が畑で作物を育て、家族で衣服を作る姿は、幼い頃、おじいさんとおばあさんと一緒に暮らした日々の幸せで満たされた感覚そのものだったから。
遠く離れたこの土地で、大切なものにまた巡り会えたと思った。

最初の3年は、糸を紡ぎ、織物をし、自分と家族の服を作っていて、売ろうなんてこれっぽちも考えていなかった。
数年後、貯金がなくなって仕事をしなくてはならなくなった時、ここの村のおじいさんや、お婆さんが子供や孫のために作る、手紡ぎ手織りのお洋服を販売させて貰えないかと始めたのがBellaTerraだった。
その時の初期費用に、おばあさんが残してくれたお金を使わせてもらった。

一緒に働いていたお年寄りたちは、どんどん亡くなっていって、ひとつの民族の伝統の技術の遺作を見続けてきた。
去年まで私の相棒だったおじいさんも、去年自分の亡くなった後、奥さんが着るための民族衣装を作ったきり、自分の作品を作っていない。

私の作業も肉体労働が多くて、今年は手伝いには来てくれない。
最近おじいさんが、糸紡ぎを紡いだり、作業をしている写真が投稿されていないのは、もう彼ができないから。

若い人は私のする作業はしないから、BellaTerraとして続けていくには、今まで4人くらいのお年寄りと私でしていた作業を、私ひとりで受け継ぐしかない現実がやってきた。

そんな現実の中で、世界が写り変わっていく中で、
今、私にとって幸せってなんだろう?
何がしたいんだろう?
BellaTerraを終わらせるべきかな?
色々、考えながら過ごしてる。

私の周りには、才能溢れるアーティストが沢山いて、私は自身がデザイナーみたいな事をして生きていけるなんて思ってもいなかった。
自分と家族の分の洋服を自給して、それで、穏やかに笑顔溢れる素朴な家族が持てたら十分だと思っていた。

今の私の現実は、腱鞘炎にしょっちゅうなる程手を動かし、栄養失調と疲労で倒れるほど、寝る 、食べるすら忘れて作ったり、書いたり、写真や音に入れ込んだ時期が続いたり、お陰様でやっと金銭的に安定して、村の人に賃金が支払えて私自身も暮らして行けるようになった。
けれど、こんな話を側にいて聞いてくれ、頑張ってるね。と言ってくれる。夕食を一緒に食べて、一緒にお茶を飲める様な相手は、もうずっといないけれど、一般的には田舎の寂しい暮らしのように分類されそうだけど、今、毎日が小さな幸せに溢れていて、穏やかな安寧と共に過ごせている。

今、これを書きながら着ているセーターは、インドの親友編んでプレゼントしてくれたもの。
日本に帰ると言えば、仲良しに女の子が「いつも穴の空いた服きてるから 、日本に行くのにそれじゃみっともないわ。」と、洋服を縫ってくれる。
今、私が着ている服は、原料がどこから来て、誰の手を通して洋服になったか知っている服ばかり。

食べ物は「自分の畑」仲良し家族の畑を手伝ってその畑から頂いていています。
「自分の〇〇」という概念がここでは軽いです。

そんな日々から
私が表現したいのは、祖父や祖母が生活を手作りしている中にあった安心感や愛情の様な、そういう目に見えない大切なものが詰まった作品を、作り続けていきたいと感じています。

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