雨の季節。
ヒマラヤの短い夏は、神事の季節。
こちらの神様は、普段はお寺に居ますが、お神輿に姿を変えて、山を昇って村か村へ祝福を届けに行ったり。
時には、何日も何日も歩いて、3000mを超える高い山の聖地まで、村人みんなで歩いて行って、キャンプしながら、山に祈って。
神様も村人も、聖なる泉や温泉で穢れを払って、お祈りしたり。
彼らは、ヒマラヤの山岳信仰と共に生きています。
この日は、私の泊まっているエリアの家々を、神様が祝福に回る日でした。
ちょうどこの日、FBに友人が 「祈りは行動。在り方。」と書いてあるのを読みました。
こちらでは、神様が来るということで、前日から、ご近所の皆様全員が外の掃除をしていました。
回覧板も、町内会もないけれど、この日に向けて、ペンキを塗り替えたり、家の外も中も、整然と片付けます。
大掃除をして、飾り付けをし、新年を祝うのに似ている気がします。
ただ、ここでは、これが年に1度ではなく、お祈りは毎日朝晩だし、玄関の飾りも一年中です。
年に何度も神様行事があって、その度に、村全員でお金を出し合って、祈祷のための寄付。楽団や炊き出し、神官、お寺への寄付をします。
普段の生活のコストを知っている私には、彼らの信仰にかける金額が多いことに驚きます。
お祈りをしている時間より、掃除したり、炊き出しの用意したり、神様の捧げもの用意を手作業でして、準備に時間をかけて、準備して、神様をお迎えしお祈りしている姿。
日本では、インドって。なんていわれたりしますが。五体投地で山を昇り祈りを捧げに行く姿。ガンジス川の水を持って、何日間も歩き続けて聖地に祈りに行く姿。
インドで長く過ごすうち、この国の人たちの、信仰とともに生きる在り方に、何度も何度も心うたれました。
祈りは在り方。
その行動。
日々山の人達は、神様のおかげだから。
とおっしゃいます。
神様が怒るから。
神様が見てるから。
そのルールが、国際社会から見ると、変わっている部分もあるということも、彼らは知っています。
そんな、彼らの暗黙の了解を伝えたい時は、
「ね! わかるでしょう。神様のルールでしょ」
と、言われます。
どこの国にも、暗黙の空気読んでね。というのは存在していると思うのですが。
ヒマラヤでは、とにかく、
山岳信仰が1番の生活の基盤です。
代々、何世代も、同じように神様のルールを守って生きてきたから、この文化が続いてきたのだと思います。